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更新日:2018年1月26日

唐津の八偉人

小笠原長行(おがさわらながみち)

小笠原長行文政5年(1822)、唐津藩主の小笠原長昌(おがさわらながまさ)の長男として唐津城内で生まれる。翌年、父長昌が亡くなったため、幼少の長行では藩主になることができず、城内二ノ丸で部屋住みの生活を送り続けた。21歳の時に江戸深川(ふかがわ)の小笠原藩下屋敷に移り、当代一流の知識人や学者である藤田東湖(ふじたとうこ)や松田迂仙(まつだうせん)、藤森大雅(ふじもりひろまさ)、高島秋帆(たかしましゅうはん)、江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)などに師事・交流した。安政4年(1857)、徳島藩主の蜂須賀斉裕(はちすかなりひろ)や土佐藩主山内容堂(やまうちようどう)の推挙により唐津藩主小笠原長国(おがさわらながくに)の世子(世継ぎ)となる。翌安政5年(1858)には、長国の名代(みょうだい)として唐津に帰り藩政改革を行い、領内ではさまざまな知識人達とも交わり、善政を行った。文久2年(1862)には、世子という身分のまま、奏者番(そうじゃばん)として幕閣に入り、同年、若年寄を経て老中格となり、生麦事件の解決など終末期の幕府を支え、慶応元年(1865)には老中となった。慶応2年(1866)、第2次長州征伐の際には、九州方面の幕府軍の総司令官となる。戊辰戦争の際は、会津から函館五稜郭まで旧幕府軍と共に行動した。明治5年(1872)から東京の駒込(こまごめ)で隠遁(いんとん)生活を送り、明治11年(1878)に東京での唐津出身者の寄宿・交流の場として、麹町(こうじまち)の小笠原邸の一部を開放するなど、久敬社(きゅうけいしゃ)(外部サイトへリンク)の設立に尽力した。

 

大野右仲(おおのうちゅう)

 大野右仲天保7年(1836)、唐津藩士大野勘助(かんすけ)の長男として生まれる。その英明さにより幕府の昌平坂学問所や古賀謹一郎(こがきんいちろう)の家塾久敬舎(きゅうけいしゃ)に入学し、長州藩士の高杉晋作(たかすぎしんさく)や長岡藩士の河井継之助(かわいつぎのすけ)とも交流を持つ。小笠原長行を長国の世子の地位につけるために尽力するなど、長行の側近として共に行動し、慶応2年(1867)には、長行付きとして、藩命により江戸で実家とは別の大野家当主となる。慶応4年(1868)3月には、長行の江戸脱走に随行し、仙台(宮城県)で新選組に入隊、土方歳三(ひじかたとしぞう)付きの陸軍奉行添役(副官)として活躍した。五稜郭(ごりょうかく)陥落後、明治2年(1869)に幽閉先の青森で書いた記録が、昭和18年(1943)に小笠原長行の伝記本として刊行された『小笠原壱岐守長行』の中に、「函館戦記」として採録されており、土方歳三の最後を伝える貴重な記録となっている。明治以降は明治政府に仕え、豊岡県(兵庫県及び京都府の一部)の権参事(ごんさんじ)や青森県警部長などを経て、明治31年(1898)東松浦郡長としてに唐津に戻り、唐津の近代化にも貢献した。明治27年(1894)から29年(1896)にかけては久敬社の幹事も務め、東京の大学などに通う唐津出身者の育成に尽力した。

 

 長谷川芳之助(はせがわよしのすけ)

長谷川芳之助唐津藩士長谷川善兵衛(はせがわぜんべえ)の長男として生まれる。奥村五百子(おくむらいおこ)と共に勤王派(きんのうは)であった父久微の唐津脱藩後、大坂で生活する。明治5年(1872)には、優秀な学生に限り官費で入学できる貢進生(こうしんせい)として東京の大学南校(後の東京大学理学部の前身校)に入学する。その後、明治8年(1875)には、第1回文部留学生としてアメリカのコロンビア大学で鉱山学を学び、その後、ドイツのフライブルグ大学では、製鉄事業を研究した。帰国後、明治13年(1880)に三菱に鉱山担当として入社し、高島炭鉱勤務などを経て、明治20年(1887)には本社副支配人となり、三菱の筑豊地方進出に貢献した。明治21年(1888)には、日本初の工学博士5人の中の1人に選定された。三菱退社後は、牟田部炭鉱(唐津市相知町)の経営に携わったり、八幡製鉄所調査会委員としてその設立に尽力した。  

 

奥村五百子(おくむらいおこ)

奥村五百子右大臣二條治孝の孫で、唐津高徳寺住職でもある奥村了寛(おくむらりょうかん)の長女として生まれる。五百子の大叔母は、蓮池藩主鍋島直興(なべしまなおおき)の奥方。徳川幕府派の多い唐津藩の中で、勤王派(きんのうは)であった父の影響を受け、19歳の時には、父了寛の使者として男装して長州藩に赴き、高杉晋作(たかすぎしんさく)などとも交流を持つなど、幕末には、勤王の志士たちの連絡係として活躍し、水戸藩士とも一時期結婚していた。明治23年(1890)に行われた第1回帝国議会選挙において天野為之の応援に奔走し、天野を当選に導いた。また、明治29年(1896)に完成した、当時、九州一長い橋と称された松浦川に架かる松浦橋の架橋や、唐津の石炭を積み出すための港湾整備や鉄道の敷設にも尽力した。明治30年(1897)には、浄土真宗の布教のため、兄の円心と共に朝鮮半島に渡る。明治33年(1900)に起こった北清事変の戦地を視察した際に、戦場の悲惨さを痛感し、軍人遺族の救護団体としての女性運動組織である「愛国婦人会」を小笠原長生(おがさわらながなり)などの支援を受け、明治34年(1901)に設立した。

 

辰野金吾(たつのきんご)

辰野金吾唐津藩士姫松蔵右衛門(ひめまつくらえもん)の子。後に、唐津藩士辰野家の養子となる。明治4年(1871)、18歳で唐津藩の英学校耐恒寮で入学し、高橋是清に英語を学ぶ。明治6年(1873)に工学省工学寮に入学、後に造家学科に移り、ジョサイア・コンドルの指導のもと建築を学んだ。明治12年(1879)には、造家学科を首席で卒業し、明治13年(1880)より官費留学生として、ロンドン大学の建築構造学科に入学する。帰国後、明治17年(1884)には工部大学校教授に就任、以後、東京帝国大学教授などを歴任し、後進の育成に尽力した。また、明治36年(1903)には、東京に辰野葛西建築事務所を、明治38年(1905)には、大阪に辰野片岡建築事務所を設立し、日本における建築の体制を確立した。日本銀行本館や中央停車場(東京駅)、武雄温泉新館・楼門、日本生命九州支店などを設計し、中央停車場(東京駅)に代表される、赤煉瓦に白い石を帯状に配し屋根に塔やドームをいただいた建築スタイルは「辰野式」呼ばれ、辰野が監修し、教え子である田中実が設計した旧唐津銀行(佐賀県重要文化財)の様式にも「辰野式」が採用されている。

  

 曽禰達蔵(そねたつぞう)

曽根辰蔵唐津藩士曽禰政ハル(そねまさはる)の子。幕末は小笠原長行に小姓として仕え、上野戦争にも幕府方として参加したが、会津・庄内と転戦後、唐津に帰る。明治4年(1871)、唐津藩英学校耐恒寮(たいこうりょう)に入学し、高橋是清の教えを受ける。明治6年(1873)、工学省工学寮の第一期生として入学。卒業後、工部省に勤務し、明治14年(1881)には工部大学校の助教授となる。その後、明治19年(1886)には海軍省に入り、鎮守府建築委員などを経て、明治23年(1890)師であるにジョサイア・コンドルの推薦で三菱に入社。三菱が計画した東京丸の内のビジネス街の建築をコンドルとともに手がけ、赤煉瓦のビルが建ち並ぶ「一丁(いっちょう)ロンドン」と呼ばれるオフィスビル街の礎を築いたほか、三菱長崎造船所占勝閣(せんしょうかく)(世界文化遺産)などの設計を行い、三菱退社後は三菱の建築顧問となる。また、中條精一郎(ちゅうじょうせいいちろう)と共に、戦前の段階では、日本最大規模の設計事務所となる曽禰・中條建築事務所を開設し、慶応義塾大学創立50年記念図書館(重要文化財)、三井銀行小樽支店などを設計した。

 

 天野為之(あまのためゆき)

天野為之唐津藩士天野松庵の子として生まれる。明治4年(1871)、11才で耐恒寮(たいこうりょう)に入学し、高橋是清(たかはしこれきよ)から英語を学ぶ。明治8年(1875)、高橋是清の勧めで東京に上京し、東京外国語学校や東京開成学校(現在の東京大学)に入学した。卒業後、明治15年(1882)には、大隈重信(おおくましげのぶ)を助けてに設立に尽力した、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師に就任。明治19年(1886)に発刊した天野の著作の『経済原論』は、1年で4回の重版が行われた程の大ベストセラーとなった。明治23年(1890)に行われた第1回帝国議会選挙に衆議院議員として当選。また、「東洋経済新報」の社長兼編集長となり、経済ジャーナリストとしても活躍した。一方、早稲田大学の第2代学長に就任したほか、早稲田実業中学校の設立にも尽力して第2代校長に就任するなど、終生教育に情熱を傾けた。その功績がたたえられ、早稲田四尊の一人として現在も顕彰されている。

 

大島小太郎(おおしまこたろう)

大島小太郎唐津藩士大島興義(おおしまおきよし)の長男。明治4年(1871)、13歳で耐恒寮(たいこうりょう)に入学。明治10年(1877)に上京し、三菱商業学校に入学し、経済学などを学んだ。一時期、石巻商業高校の教師をしていたが、明治16年(1883)には唐津に帰り、明治18年(1885)に唐津銀行の設立と共に初代頭取に就任した。また、唐津港の国際港化を目指して活動し、明治22年(1889)に唐津港が国の特別輸出港に指定されると、港湾の整備に尽力した。あわせて、唐津の重要な輸出産業である石炭の円滑な唐津港への運搬のための鉄道敷設を図り、明治29年(1896)の唐津興業鉄道株式会社設立の際は、取締役に就任している。明治41年(1908)には、唐津電灯株式会社を設立し、唐津の街への電灯の普及を図り、大正6年(1917)には、唐津電気製鋼株式会社の社長に就任するなど、唐津の近代化のためのインフラ整備に尽力し、地域産業の振興にも貢献した。      

 

 

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