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更新日:2015年8月6日

秀吉がもたらした文化

能・茶・祭

天下人豊臣秀吉は、文禄(ぶんろく)2年(1593)の1月から名護屋城内の能舞台で、能を自ら稽古し始め、3月の初めには大阪に残した妻、北の政所ねねに「能十番覚え申し候」と手紙を書くほど能に熱中していました。さらに自らの業績を「吉野詣」「明智討」「北条」といった能に創らせ、自ら主役を演じました。世に言う太閤能です。以来秀吉は能を保護し、その文化政策は徳川幕府にまで引き継がれています。

現在でも名護屋城跡で「薪能(たきぎのう)」を催される事があり、桃山文化のにぎわいを体感できます。

豊臣秀吉は文禄1年(1592)と慶長2年(1597)の2回にわたり、朝鮮半島に兵を出しました。文禄慶長の役と呼ばれ、「やきもの戦争」とも言われています。

文禄・慶長の役のある期間、秀吉は、唐津にほど近い名護屋の城に留まり、近辺の窯々に茶陶を焼かせて茶の湯を楽しんだとも言われています。茶道は、武人や富裕な商人の間における不可欠の教養であったと言われ、当然、陶器の水差しや茶碗に関心が集まり、したがって高度な技術を持った朝鮮陶工がとりわけ重用されたのです。

焼き物後進地域であった山口、九州の大名が計画的に窯業を興そう(おこそう)ともくろみ、多くの朝鮮陶工を連行したため、朝鮮半島の焼き物技術は途絶えてしまった程と言われています。そして唐津、萩、薩摩、有田、上野、高取、伊万里、そのほかの窯業地が開かれました。その時以降、朝鮮系の製陶技術が山口、九州各地に伝わり、江戸時代の窯業の特徴を出しています。

このように見てくると、戦略的には失敗の汚名を残した文禄・慶長の役ですが、西九州の窯業にはかり知れない恩恵をもたらし、ひいては世界の窯業に大きな影響を与える事になりました。その意味で、この2度の役が「やきもの戦争」と呼ばれている事も納得できます。

「呼子大綱引」の始まりは、豊臣秀吉が文禄・慶長の役で名護屋城(現在の唐津市鎮西町)に陣を構えていた400年ほど前です。兵の士気を鼓舞(こぶ)するために加藤清正と福島正則の陣営を東西に分け、軍船のとも綱を使って綱引きをさせたのが始まりと言われています。

また、唐津市鎮西町の波戸漁港で8月15日、豊臣秀吉以来の伝統という「海中盆綱引き」があり、地元の若衆が胸まで海に漬かり(つかり)ながら直径40センチ、長さ35メートルの大綱を豪快に引き合います。

朝鮮出兵の際、近くの名護屋城に陣を張った秀吉が、将兵の士気高揚と戦没者供養を兼ねて始めたとされています。「ハル、オイサーのエンヤー」という独特の掛け声あります。

地図・写真・統計資料など

肥前名護屋城跡本丸薪能

肥前名護屋城跡本丸薪能

呼子大綱引

呼子大綱引

海中盆大綱引

海中盆大綱引

(唐津市フォトライブラリーより)

引用・参考文献(出典)

  • 96’唐津文化フォーラム、炎が結ぶものー歴史のなかの唐津焼ー(東アジア文化交流振興協会)
  • 唐津観光協会

参考文献について

参考文献については、近代図書館が所蔵している資料もあります。

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電話番号:0955-72-3467

秀吉がもたらした文化

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