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更新日:2015年8月6日

(建築家)曽禰達蔵(そねたつぞう)

明治の建築界第一の人格者

数多くの作品を残し、戦前最大の設計事務所になりました。この間、日本建築学会会長、衛生工業協会会長、冷房暖房協会会長などの要職を歴任しました。(唐津市建設部建築課、H18年唐津近代図書館「唐津の三大建築家展」の際の資料より)

宮島醤油HPより

曽禰達蔵(そねたつぞう)は嘉永(かえい)5年(1852年)、江戸城下丸の内、大名小路の唐津藩邸に生まれました。父は藩主の傍に仕えて文筆を担当する役職(祐筆、ゆうひつ)でした。当時の唐津藩主は小笠原長国(ながくに)で国もとにあり、その世子(後継者)である長行(ながみち)が江戸にあって幕府の役人を務めていました。曽禰達蔵は小笠原長行に気に入られ、10歳のことから長行の小姓になりました。

明治4年(1871年)唐津藩が藩校として英学寮耐恒寮(たいこうりょう)を開設し、東京から高橋是清(たかはしこれきよ)を招いた時、曽禰達蔵は第一期生として入学しました。翌年、高橋が東京に戻るに際して曽禰は同行し、高橋家に住み込みになりました。翻訳などのアルバイトを紹介してもらいながら、勉学を続けました。

明治6年(1873年)、工学寮(後の工部大学校、東京大学工学部の前身)の第一期生入学試験が行われ、曽禰はこれに合格して寮生になりました。工学寮の中では最も芸術性、人文性の高いと思われた造家学科(今の建築学科)を選びました。

明治10年(1877年)、英国から若き建築学者ジョサイア・コンドル(JosiahConder)が来日しました。工学寮は工部大学校と改称され、コンドルが造家学科初代教授になりました。造家学科はにわかに活気付き、辰野金吾、片山東熊(かたやまとうくま)、曽禰達蔵、佐立七次郎(さたちしちじろう)、宮伝次郎らが厳しい教育、訓練によってめきめき力をつけました。コンドルと曽禰は同い歳であり、特に深い友情と師弟関係を持つに至ります。

明治12年(1879年)に工部大学校を卒業した後、曽禰は工部大学校(教授補、助教授)と海軍省(海軍兵学校建築掛、技師)とを兼務したり転勤したりして、後進の指導と海軍施設の建築にあたりました。

明治23年(1890年)、三菱社の岩崎弥之助は丸の内の広大な土地をまるごと買い取り、世間をあっと言わせました。英国から帰国した三菱の2代目大番頭、荘田平五郎(しょうだへいごろう)は、早速コンドル教授に助力を求めコンドルは曽禰を呼び寄せました。曽禰は海軍を退職して、三菱社に建築技師として入社します。

こうして、荘田平五郎、ジョサイア・コンドル、曽禰達蔵という強力なチームがこの年のうちに結成され首都の中心街の建設がスタートします。そして明治43年(1910年)ごろには、「丸の内煉瓦街(まるのうちれんががい)」と呼ばれるビジネスセンターが完成しました。この街全体が三菱の所有物であり、三菱はオフィスビル賃貸業を一つの事業として成立させました。

曽禰はこの間、自社ビルの建設にも精力的に取り組んでいました。三菱社大阪支店、三菱銀行神戸支店、三菱合資会社門司支店などを設計し、ふるさと唐津には三菱合資会社唐津支店を残しました。

明治39年(1906年)、55歳になった曽禰は三菱合資会社を定年退社し、同社建築顧問となりました。同時に東京九段に曽禰建築事務所を開設しました。2年後には16歳年下の俊才、中條精一郎を招いて曽禰中條事務所と改めました。以後の活動は中條との共同作業になり、また一つ充実した創作の時期を迎えました。学校、会社、庁舎、私邸など、沢山の作品が生み出されましたが慶応義塾創立50周年記念図書館(大正元年、1912年)をはじめとする慶応義塾の校舎群が名作として知られています。

曽禰を知る人々は、口々にその人格の高潔さを語りました。曽禰は真摯(しんし)、篤実(とくじつ)そのもので誰からも信頼され尊敬されました。曽禰は技術志向で建築には合理性と機能性を求め、様式にはこだわりませんでした。組織の中で働くことに向いていたようで三菱の社員を定年まで勤めたのも個性派揃いの明治建築界のリーダー達の中にあっては珍しいことでした。

三菱合資会社唐津支店本館は、明治41年(1908年)9月に完成しました。唐津西港妙見埠頭の付け根部分に、あります。明治末期の唐津西港は国内外への石炭積出港として栄えており、三菱合資会社は石炭の取引で利益を上げていました。

大正8年(1919年)ごとが全盛期で、パナマ運河を経由して東西を結ぶ世界一周の貨客船も唐津港に寄港していたと言われています。

白をモチーフとしたこの木造洋館は、とても愛らしく気品に満ちて海辺の風景によく映えます。現役で活躍していた頃は「三菱御殿」と呼ばれていました。海側の広々としたバルコニーが心地いいです。そこに立つと、右に唐津漁港、左に妙見工業団地、正面には湾内を行き交う船が見えます。海風と建物が一体化したような開放感が訪問者を包みこみます。明治という時代の権威主義、事大主義とは別の曽禰達蔵が愛した世界があります。

地図・写真・統計資料など

曽禰達蔵(1852~1937)

曽禰達蔵(1852~1937)

曽禰達蔵が設計した日本郵船ビル(右)と東京海上ビル

曽禰達蔵が設計した日本郵船ビル(右)と東京海上ビル

(『唐津市史』より)

引用・参考文献(出典)

  • 唐津市建設部建築課H18年、唐津近代図書館『唐津の三大建築家展』の際の資料より
  • 宮島醤油HPより一部抜粋
  • 『日本の建築、明治大正昭和<第3巻>国家のデザイン』藤森照信著、益田彰久写真(1979年三省堂)
  • 『日本の建築、明治大正昭和<第7巻>ブルジョワジーの装飾』石田潤一郎著、益田彰久写真(1980年三省堂)
  • 『曽禰達蔵詩歌集』(1967年、曽禰武発行)
  • 『小笠原壱岐守長行』小笠原壱岐守長行編纂会
  • 『20世紀日本の経済人』日本経済新聞社編(2000年日経ビジネス人文庫)
  • 『唐津市史』

参考文献について

参考文献については、近代図書館が所蔵している資料もあります。

資料についての問い合わせは近代図書館までお願いします。

電話番号:0955-72-3467

曽禰達蔵(そねたつぞう)

曽禰達蔵(そねたつぞう)PDFデータ(PDF:300KB)

曽禰達蔵(そねたつぞう)PDFデータ(PDF:141KB)

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