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更新日:2015年8月6日

藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)

奈良時代の貴公子:藤原広嗣と唐津

藤原広嗣の乱

藤原広嗣は、藤原鎌足―不比等(ふひと)―宇合(うまかい)と続く藤原家嫡流(ちゃくりゅう)の貴公子です。
朝廷において、圧倒的な権力を誇っていた藤原四兄弟が天然痘(てんねんとう)の流行によって相次いで死にました。藤原氏の勢力は大きく後退し、宇合の長男、広嗣は大養徳(大和)守から太宰少弐(だざいのしょうに)に任じられ、太宰府に赴任しました。これを左遷(させん)と感じた広嗣は、天平12年(740年)8月29日、天地による災厄の元凶は、反藤原勢力の吉備真備(きびのまきび)と僧玄昉(そうげんぼう)に起因するとの上奏文を朝廷に送りました。

聖武天皇は、広嗣の召喚の勅(ちょく)を出しますが、従わず、広嗣は天平12年、弟の綱手(つなて)とともに太宰府の手勢や隼人などを加えた1万余を率いて反乱を起こしました。聖武天皇は広嗣を反逆者として、大野東人(おおののあずまびと)を大将軍に任命し、兵1万7千人を授けて広嗣討伐(とうばつ)を命じました。広嗣は追討軍に敗走し、最後は肥前国松浦郡に逃れ、値賀浦から耽(たん)(韓国の済州島)へ亡命しようとしましたが、逆風に吹き戻されて、値嘉島の長野村に漂着し、そこで討伐の軍に捕らえられ、松浦郡で処刑されました。

吉備真備は天平勝宝2年(750)筑前守に任じられて下向し、広嗣の怨霊鎮めにつとめ鏡神社を建立しました。
また、広嗣処刑の地とされている浜玉町五反田には、広嗣鎮魂の為の無怨寺が建立されました。建立したのは五反田村の庄屋加茂丹後で、建立までの流れが分かる手紙が残っています。現在の大村神社です。

藤原広嗣の乱関係図

藤原広嗣の乱関係図(ウィキペディアより)

エピソード・伝承・うんちくなど

鎮西町早田にもある広嗣伝承

広嗣が追手を逃れ身を隠したとされる渕の地では、後に広嗣の死を知った村人が渕野権現社を建て霊を奉りました。この社の神田には、下肥をやってはならないとされ初穂を奉納するといいます。また一説には、稚茶木(ちさき)の下で自害したともいわれ、そこに稚茶木権現を奉って霊を慰めました。この下の田には毎年一羽の白鷺(しろさぎ)が飛んでくるようになり、これを「権現様(ごんげんさま)の使い」といいました。

広嗣の遺体を埋葬したところを伽藍野(がらんの)、あるいは藤原原といい、ここには昔、松の大木があり、これを切り倒した木こり二人は盲目になったという伝説もあります。いずれの権現社も、早田鎮守神社に合祀(ごうし)されています。

肥前町には「馬ノ部(まのはまり)」という地名があります。

これは、広嗣の馬がはまり込んだことにちなんだ地名といいます。

大村神社の成立、音なしの祭り(家に引きこもる祭りがある)

地図・写真・統計資料など

鏡神社二の宮

鏡神社二の宮

(『鎮西町史上巻』より)

大村神社境内・浜玉町

大村神社境内・浜玉町

(『浜玉町史上巻』より)

引用・参考文献(出典)

  • 『鎮西町史』P314
  • 『松浦風土記』一巻之上2.鏡神社、二ノ宮之事

参考文献について

参考文献については、近代図書館が所蔵している資料もあります。

資料についての問い合わせは近代図書館までお願いします。

電話番号:0955-72-3467

藤原広嗣

藤原広嗣PDFデータ(PDF:244KB)

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問い合わせ

文化振興課 

〒847-8511 佐賀県唐津市西城内1番1号

電話番号:0955-53-7129