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更新日:2015年8月6日

唐津の名の起こり

松浦・唐津地名考

唐津は、3世紀の弥生時代に「末盧国(「まつろこく」もしくは「まつらこく」)」として『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に記載されています。ここでは土地名を「まつろ」としますが、8世紀に編纂(へんさん)され『古事記』や『日本書紀』(以下「記紀(きき)」、『肥前国風土記』では神功皇后の新羅征討(しらぎせいとう)説話と関連づけて「梅豆羅国(めずらのくに)」とし、その後に訛って(なまって)「松浦」という地名になったと考えられます。

「松浦」は現在は「まつうら」と読みますが、『万葉集』(8世紀)では「麻通羅(まつら)」や「麻都良(まつら)」とし、古代では「まつら」と呼ばれていた事がわかっています。

この「松浦」には、大陸との交通や防備の要として「松浦郡」が置かれていました。上記の神功皇后説話に見る地名の成立は8世紀の記紀などの編纂段階で創出されたこじつけ的な意味合いが強く、『魏志倭人伝』でも記されるように「まつろ・まつら」的な地名はすでに存在しており、その後、遅くとも記紀などが成立した8世紀前半までにそうした読みに「松浦」の字が地名の固有名詞としてあてられ「松浦」の地名になったと考えられています。

一方、「唐津」の地名は決して古いものではありません。記紀等の記載からも現在の唐津市鏡付近が6世紀段階には朝鮮半島への渡海拠点になっていた事は想定できますが、そこには「唐津」の表記は確認できません。その後、8世紀前半の遣新羅使(けんしらぎし)の歌が所収され『万葉集』では筑前国の「韓亭(かんてい)」・「引津亭(ひきつのとまり)」を経て、肥前国松浦郡の「狛島亭(こましまてい)」に停泊しここから壱岐へと渡っています。この「狛島」は現在の唐津市の「神集島」であり、この「神集島(柏島)」は奈良・平安期を通じて日本だけに限らず、中国からも日本の重要な渡海・着岸拠点と認識されていましたが(『頭陀親王入唐略記(ずだしんのうにっとうりゃくき)』・『本朝紀』・『小右記』等)、「唐津」という表記はありません。

11世紀後半になり、太宰府の安楽寺の荘園の1つに「辛津荘(からつのしょう)」という記載が見られるのが「唐津」の地名の初見ですが(『安楽寺文書』)継続はせず一時的な地名表記として文献からも消えていきました。

中世段階になっても在地武士の中に「唐津」の名を冠する武将が一人もいないことからも、この「唐津」の地名の成立は村に付随するものではないことが分かっています。こうしたことからも、「唐津」という地名の成立とその時期について次のようなことが考えられます。

「唐津」の表記が11世紀後半になりようやく確認できることや、この11世紀後半から12世紀には宋人(そうじん)を中心とした居留地である「唐坊」が博多でも形成されていることを考察した最近の研究動向などから勘案しても、この「唐津」の地名は11世紀後半以前に「神集島」及び対岸の「唐坊」(唐津市湊)が1つの大きな中国人居留地並びに重要渡海拠点としての形を形成していたことにより、「唐人津(とうじんのつ)」的な「施設」を呼称する意味合いが「唐津」と呼称されるようになったと考えられています。

この「唐津」という地名が施設的な呼称から「松浦」に代わる地名的な呼称へと転化するのは、あとの15、16世紀になってからのことです。

エピソード・伝承・うんちくなど

韓国に「唐津(タンジン)」という地名があります。

引用・参考文献(出典)

『西日本文化』

参考文献について

参考文献については、近代図書館が所蔵している資料もあります。

資料についての問い合わせは近代図書館までお願いします。

電話番号:0955-72-3467

唐津の名の起こり

唐津の名の起こりPDFデータ(PDF:159KB)

唐津の名の起こりPDFデータ(PDF:140KB)

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問い合わせ

文化振興課 

〒847-8511 佐賀県唐津市西城内1番1号

電話番号:0955-53-7129