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更新日:2015年8月6日

唐津の古墳と末盧国

唐津地域には、谷口古墳、島田塚古墳、中原遺跡ST12032、ST11158、双水柴山2号墳、久里双水古墳、竹の下1号墳、竹の下2号墳、峰の辻古墳(群)、瓢塚(ひょうづか)古墳の合計10基の前方後円墳が存在します。糸島地域に比べ決して多いとは言えませんが、北部九州における1つの中心地(末盧国とそれを引き継いだ松羅県)であったとみて間違いないでしょう。

仮に全長50m以上の前方後円墳を大規模古墳とすると、玉島川・横田川流域に谷口古墳(77m)、松浦川・波多川流域に久里双水古墳(108.5m)、竹の下2号墳(52m)の3基が指摘できます。松浦川・波多川流域には、中規模古墳を含めると5基から6基の前方後円墳が集中して築かれており、唐津平野における扇の要の位置に当たるこの地域に、古墳時代初頭の中心地があった可能性が高いと言えます。

その後、本流域での前方後円墳の築造は一旦途絶え、4世紀後半には玉島川流域において谷口古墳が築かれます。6世紀前半の島田塚(半田川・宇木川流域)まで、唐津平野では前方後円墳は確認されていませんが、昨年谷口古墳のすぐ北で、5世紀代の埴輪窯が発見されており、谷口古墳と島田塚の間を埋める首長墓が、今後新たに発見される可能性が指摘されています。

久里双水古墳は、夕日山山麓(さんろく)より北西に延びだす丘陵(きゅうりょう)先端部に築造された、全長108.5m、後円部径62.2m、前方部幅42.8mの規模を持つ、唐津平野では最大の前方後円古墳です。その墳頂に立つと、眼下に松浦川が流れ、唐津平野と天然の良港である唐津湾を一望する事ができます。

典型的な前期古墳の特徴として、長大な竪穴式石槨(いしかく)に割竹形木棺(わりたけがたもくかん)を安置する埋葬施設、そして鏡(三角縁神獣鏡など)と武器の大量の副葬が挙げられます。しかし久里双水古墳の場合、お棺には舟形木棺を採用し、鏡が1面と管玉(装飾品)2点、刀子(ナイフ)1点のみが副葬され、武器類は存在しません。前方後円墳というヤマト政権の墓制を採り入れながら、埋葬施設と副葬品においては大きな違いが存在します。

弥生時代、唐津平野一帯は「末盧国」の中心地に比定されています。副葬品に見られるこの地域の特徴は、装飾品の卓越(たくえつ)=貝輪(かいわ)やそれを模した青銅の腕輪、ヒスイ製の勾玉を初めとする多様な玉類の副葬などが挙げられますが、そこからイメージされるのは「海と女性」と言えるでしょう。

『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によると、「…千余里で末盧国につく。四千余戸があり、山海に沿って住んでいる。…(末盧国の住人は)魚やアワビを好んで捕っている。海が深くても浅くても、皆海にもぐり魚介類を捕っている。」とあり、「末盧国」が海と深く結びついていた事が記載されています。久里双水古墳の舟形木棺も、海を活躍の舞台とした末盧国の性格を表しているのかもしれません。

また、時代は大きく下りますが、中世、海の武士団として勇名を馳(は)せた「松浦党」では、主に女性により「イエ」が維持され(男は海の藻屑になる可能性が高い!)、相続に関しても大きな影響力を持ち、さらに女性自身が父祖の地を伝領することもあったようです。久里双水古墳も、副葬品に武器類を持たないことから、女性が被葬者である可能性が指摘されていますが、海と関わる末盧国人の伝統が連綿として続いていたのかもしれません。

引用・参考文献(出典)

  • 『西日本文化』
  • 『末盧初唐津へガイドマップ』唐津市教育委員会、文化課

参考文献について

参考文献については、近代図書館が所蔵している資料もあります。

資料についての問い合わせは近代図書館までお願いします。

電話番号:0955-72-3467

唐津の古墳と末盧国

唐津の古墳と末盧国PDFデータ(PDF:189KB)

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問い合わせ

文化振興課 

〒847-8511 佐賀県唐津市西城内1番1号

電話番号:0955-53-7129