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更新日:2015年8月6日

二里の松原と虹の松原

虹の松原と二里の松原の呼び名について

江戸時代には、虹の松原を二里の松原とも呼んでいました。
寛政元年(1789年)幕府巡見使が来唐したとき虹の松原の名称を尋ねられて案内の庄屋は、虹の松原は二里の浜、虹が浜、唐土が原とも呼んでいると答えています。

天保9年(1838年)の幕府巡見使にも『御料御巡見様御案内記(ごりょうごじゅんけんさまごあんないき)』によれば、「先に見える松原は何と申すか」と尋ねられて「二里の松原とも虹ノ松原とも申し候」と答えています。

また、虹の松原の長さについては土井氏時代の『巡見手鑑』(唐津藩が出した巡見使の質問に対する模範回答集)に、「虹ノ松原東西1里(約4キロ)、南北5丁(約550メートル)」と書いてあるので松原の長さが1里程度であったことは確かでしょう。

では、どうして二里の松原と言うようになったのでしょうか?
この疑問に答えてくれそうな問答が『寛政元年土屋忠治郎(つちやちゅうじろう)様御駕籠添御答書上帳(おかごそうみとうかきあげちょう)』の中にあります。井手野村大庄屋の松尾兵左衛門(まつおひょうざえもん)が答えたものです。

「間もなく二子へ御出に成られたところで土屋様御駕籠立(休憩)なされたので、私達も休んでいたところお呼びになり、濱﨑より水嶋(満島)までの道のりをお聞きになりました。1里4丁程ありますと申し上げたら、濱﨑で聞いたところでは2里と申したのにと仰せられたので、よく虹ノ松原のことを聞き違えて二里の松原と申す者もいるので、浜崎で答えた者も、きっと間違えて2里と申上げたのではないかと思います」と答えています。

兵左衛門の見解を正しいとすれば、全長1里程の松原を二里の松原と言う疑問が解けるのです。松尾兵左衛門は後に、名護屋組の大庄屋を務める当代きっての博学で知られた庄屋でした。この見解は正しいとみていいのではないでしょうか。

エピソード・伝承・うんちくなど

唐津藩へ来た巡見使:『名古屋家文書』(名古屋政昭家蔵)には、巡見使が制度化される以前の寺沢時代に、唐津藩へ来た巡見使の記録があります。

  • 一、寺沢志摩守様御代(てらさわしまもりさまみよ)、御上使様両度御廻り(ごじょうしりょうどおんまわり)遊ばされ候事(そうろうこと)
    名護屋御城御案内、我等祖父伊右衛門(いえもん)に仰せ付けられ候事
  • 一、寺沢兵庫守様御代(てらさわひょうごもりさまみよ)、一度御廻り遊ばされ候節、名護屋御城御案内、我等祖父伊右衛門に仰せつけられ、首尾よく相勤め申し候事
  • 一、両度御廻り遊ばされ候御上使様、御家名書付見失い申し候事

これによれば寺沢志摩守時代、年代は不明ですが2回兵庫頭の時1回、計3回の派遣があったことが分かります。
すでに廃城となっていた名護屋城の案内を、名護屋村庄屋の伊右衛門が勤めていました。
巡見使が制度化された以降の西国巡見使の派遣については、前記『名古屋家文書』を始め唐津藩の庄屋文書に多くの資料が残っています。
(松浦史談会『末廬國』第167、169、170、171号山田洋氏資料より)

地図・写真・統計資料など

虹の松原

虹の松原

(田中明さん提供)

引用・参考文献(出典)

「自然」の部「虹の松原」を参照

参考文献について

参考文献については、近代図書館が所蔵している資料もあります。

資料についての問い合わせは近代図書館までお願いします。

電話番号:0955-72-3467

二里の松原と虹の松原

二里の松原と虹の松原PDFデータ(PDF:122KB)

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問い合わせ

文化振興課 

〒847-8511 佐賀県唐津市西城内1番1号

電話番号:0955-53-7129