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更新日:2015年8月6日

松浦佐用姫に関連する諸々のこと

佐用姫のイメージは・・・日本最初の仏教伝来の地、松浦・もう一つの佐代姫終焉(しゅうえん)の地、浦ノ崎・松浦佐用姫、人々のとらえ方

日本最初の仏教伝来の地、松浦

狭手彦(さてひこ)は『日本書記』(720年)によれば、537年と562年の2回朝鮮に渡っています。もちろん、佐用姫との話は537年の第1回目の時のことです。

教科書では日本への仏教伝来は、538年です。これは、百済(くだら)の聖明(せいめい)王が大和朝廷に仏像と経典を奉った(まつった)ことを公式にしています。

それでその前年、つまり537年に狭手彦は出陣し10か月後に帰国しています。百済で佐用姫が亡くなったことを知り、まだ倭人には当時未知なる新思想である「仏教と仏像」が死者の霊を鎮めるということを聞き、聖明王にお願いし亡き佐用姫のために仏像を作ってもらい読経法要(どきょうほうよう)をしてもらったと言われています。

そして、後日狭手彦は、大和への帰路松浦川の鏡山山麓の赤水(あかみず)に立ち寄り、この地に祠(し)を立て佐用姫の仏像を安置したと伝えられています。この仏像は観音像ですが時代は下り、いつの頃からか赤水観音堂は無住となり堂宇(どうう)が荒廃したため、このさまを憂えた時の恵日寺の和尚さんが観音像を当寺に移し、安置し、今日に至っています。このことから、松浦の地が日本最初の仏教伝来の地と言えるでしょう。

もう一つの佐代姫終焉の地、浦ノ崎

前の方で述べたように南北朝末期には佐用姫は石と化しますが、佐用姫のその後についてはまだまだ幾つかの伝承が各地にあります。その中の一つを紹介します。

それは、佐用姫が狭手彦の軍船を追い鏡山を下って浜崎より小舟に乗って後を追いましたが、嵐に遭い命果て伊万里の浦ノ崎に流れ着きました。そこで、土地の人々は懇ろ(ねんごろ)に弔い(とむらい)ました。そして、狭手彦は佐用姫のために仏像まで持ち帰っています。

このことからそこでは現在、伊万里市山代町立岩字佐代田原433番地、社会保険病院内に佐代姫塚と佐代姫神社があり、地区の氏子さん達が管理し毎年祭祀(さいし)も行われています。地区の人は未婚の人には、縁結びの神様として、既婚の人には家内安全の神様として信仰も厚いようです。

松浦佐用姫、人々のとらえ方

今まで述べたように松浦佐用姫像についてはそれぞれの時代によって、また、それぞれの地域によって多少違っています。

1つは、悲恋のヒロイン像
2つは、おそろしい蛇神伝説像
3つは、石になった化石伝説像
4つは、戦時中の貞女の鑑としての像
5つは、浦ノ崎にみられるような純愛像などなどがあります。

さて、みなさんの佐用姫像は如何(いか)に。

エピソード・伝承・うんちくなど

  • 唐津市鏡、赤水(あかみず)観音堂・恵日寺・伊万里市浦ノ崎佐代姫神社

引用・参考文献(出典)

  • 『松浦佐用姫と大伴狭手彦』荻野忠行(P58)
  • 『松浦と万葉』清水静男著
  • 『九州の萬葉』福田良輔編

参考文献について

参考文献については、近代図書館が所蔵している資料もあります。

資料についての問い合わせは近代図書館までお願いします。

電話番号:0955-72-3467

松浦佐用姫に関連する諸々のこと

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問い合わせ

文化振興課 

〒847-8511 佐賀県唐津市西城内1番1号

電話番号:0955-53-7129