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更新日:2015年8月6日

政治の展開

明治維新から太平洋戦争終戦までの唐津

明治維新

明治元年は、1868年(慶応4年)です。明治維新は直接には尊王攘夷(そんのうじょうい)を目標にし倒幕となりましたが、神武創業の古(いにしえ)に復る(かえる)ことが新たに進むことであるという理論でした。

しかし、維新の大業に参画した人達は自分は国家の命運を荷っているんだという自負と国家百年の大計を樹てる(たてる)んだという高邁(こうまい)な気概(きがい)に満ちていました。不幸に見解を異にし、明治7年佐賀の乱、明治10年西南戦争にて果てた人達についてもこの国を思う志は同様でした。

新政府に参与し大いに活躍した人達は、いわゆる薩長土肥の出身者が多かったのですが同じ肥前といっても唐津藩は別で、唐津藩2代藩主大久保氏以来、代々譜代大名が治めた所、殊に、幕末には小笠原壱岐守長行が老中になって幕府政治の責任者たる地位にあった関係上、明治政府との間はうまくいかず唐津出身者で政界や軍閥(ぐんばつ)の大立物になった者は1人もいませんでした。明治の初めに選ばれて上京した人達も、わずかに学界にて若干の地歩を占めたことに過ぎませんでした。

明治2年(1869年)、諸藩は版籍を奉還しました。旧藩主は藩知事に任命され、唐津藩は小笠原長国侯が子爵に列せられ(つらせられ)、従来の藩域を治めることになります。家老は大参事になり、旧藩主との精神的な殿様、家来との関係はずっと後まで続きました。

明治4年(1871年)、廃藩置県の詔書(しょうしょ)が出されました。これによって唐津藩は唐津県になり、藩知事小笠原長国侯は唐津を去り東京で暮らすことになりました。ここに、はじめて殿様と家来という封建的主従関係は実質的に廃止されました。

同年11月、唐津県は廃止され、厳木地方の旧幕領と共に伊万里県に併合されました。唐津には伊万里県出張所が大手口役所におかれ、所長持長伝弥(もちながでんや)が赴任しました。明治5年、佐賀県に改めらました。伊万里県は6か月半でした。

明治6年1月には郡を区に改め、同10月にはその区に村長を置きました。
これによって江戸初期以来の郷村制度は崩壊し、200余の村は49の村に統合され、庄屋さまと百姓の関係はお役人と村民の関係になりました。

唐津の支配県は、(明治4年7月~唐津県)(明治4年11月~伊万里県)(明治5年5月~佐賀県)(明治9年4月~長崎県)(明治16年5月~佐賀県)となりました。

町制の発展

明治22年、唐津町(旧城下町を領域)が成立しました。明治29年、松浦橋(旧満島橋)が落成しました。大正13年1月満島村は、唐津町に編入しました。昭和6年2月唐津村、唐津町に合併しました。町人口は3万人余りでした。これにより、昭和7年1月唐津市が誕生しました。昭和16年、佐志町と合併しました。(戦後、昭和22年町名設定されました。昭和29年鏡村、久里村、鬼塚村、湊村が唐津市と合併しました。人口約8万人でした。その後、平成17年の大合併し、人口約13万人になります。)

地図・写真・統計資料など

舞鶴公園から眺めた昭和初期の松浦川

舞鶴公園から眺めた昭和初期の松浦川

(『唐津探訪』より)

引用・参考文献(出典)

  • 『唐津市史』

参考文献について

参考文献については、近代図書館が所蔵している資料もあります。

資料についての問い合わせは近代図書館までお願いします。

電話番号:0955-72-3467

政治の展開

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問い合わせ

文化振興課 

〒847-8511 佐賀県唐津市西城内1番1号

電話番号:0955-53-7129