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更新日:2015年8月6日

獅子城跡(ししがじょうあと)

唐津市厳木町浪瀬地区の北方に、そびえる白山(標高228m)に所在します。岸岳城主波多氏の家臣である、鶴田氏の居城です。現存する文書資料から永禄(えいろく)~天正年間にかけての獅子城跡の事が知られていますが、その前後については不明です。縄張りの基本構成は、西端最高所に主郭(しゅかく)となる3つの曲輪を連立して配し、その周囲を帯曲輪が巡ります。東の尾根上には竪堀や小規模な帯曲輪を伴う出丸的な曲輪があり、その東端で尾根を断ち切る大きな堀切が城の東限をなします。各曲輪は石垣による構築を基本とし、天然の要害地を更に堅固なものにしています。

平成3年3月30日、県史跡(城跡)指定

唐津市厳木町大字岩屋字獅子城

獅子城の歴史

獅子城は、松浦党の祖である源久(みなもとひさし)の孫にあたる源披(みなもとひらく)によって治承(じしょう)~文治年間(1177~1190)に築城されたと伝えられています。
その後、披の子(ひのこ)持(たもつ)の代になり平戸に移り、館山に城を築き平戸松浦家の基礎を造りました。そのため、獅子城は廃城になったと伝えられています。現在の獅子城には、その頃の状況を伝える遺構や遺物は確認されていません。

獅子城廃城以降、南北朝末には松浦党は「松浦四十八党」と称されるようにその勢力を拡大し、一族二門の結束を強くしていきました。しかし、上松浦では徐々に岸岳城の波多氏の勢力が強まり室町時代には波多氏が当地松浦党の主導的地位を占めるようになりました。

室町時代になると、群雄(ぐんゆう)が割拠(かっきょ)して戦乱の時代を迎えました。肥前では佐賀の龍造寺・鍋島、神埼の少弐・神代、小城の千葉、武雄の後藤、上松浦の波多・草野・鶴田・日高などの有力な諸氏に加え、肥前一帯を虎視眈々(こしたんたん)と狙う豊後の大友や周防(すほう)の大内氏も入り乱れる状況でした。特に佐賀の龍造寺の脅威(きょうい)は増し、波多氏をはじめとする上松浦党の一統は当時日在城(ひありじょう)にいた鶴田越前守前(すすむ)に獅子城を再興させ、佐賀地方に対して防備の最前線の拠点としました。

獅子城再興の時期を明確に示す資料はありませんが、当時の文書史料を通じて見てみると天文年間中頃(1540年代)には再興され中世獅子城の基礎は固まっていたようです。
天正元年(1573)から翌天正2年にかけて獅子城は佐賀の龍造寺隆信から攻撃を受ける前(すすむ)は城を固く護る(まもる)が、宗家日在城主鶴田幡守勝が和を請い(こい)龍造寺隆信はこれを受け入れて軍を解いています。また同4年(1576)にも獅子城をめぐり攻防があり、この年の6月28日に鶴田越前守前は亡くなりました。
越前守前亡き後、その跡目を継いだ長子である鶴田上総介源賢(まさる)は各地に鳥居などの石造物を奉納するなど、周辺での活動が窺える(うかがえる)資料が残されています。

天正十九年(1591)10月から翌20年2月にかけて豊臣秀吉は全国の武将に命じて名護屋(唐津市鎮西町名護屋)の地に肥前名護屋城を築城させ、さらに全国の武将をこの地に集結させました。「文禄の役(ぶんろくのえき)」の始まりです。松浦党の盟主波多三河守親(ちかし)も渡海し、ほかの武将同様この戦乱に加わっています。文禄二年(1593)に日本と朝鮮間に和が結ばれ、波多三河守親は帰国しました。しかし、帰路海上で待っていた黒田甲斐守長政より秀吉からの改易(かいえき)の命が伝えられました。これにより、波多三河守親は領地を没収され、常陸(ひたち)国筑波山麓に配流される事になりました。この改易を受け、寺沢志摩守広高がその地を領することになりました。波多氏という盟主を失った上松浦の松浦党諸氏は拠り所(よりどころ)を失い、寺沢氏に仕官するものもいましたがこれは異例の事で崩壊の道をたどり、各地に割拠(かっきょ)していた諸氏も衰亡(すいぼう)して、やがて歴史の表面から姿を消していきました。このような状況の中、鶴田上総介賢も浪々の身になりますがほどなく多久家の招きを受け多久家に仕える事になり、獅子城が廃城になったのです。

エピソード・伝承・うんちくなど

獅子城の大改造

波多氏改易後、上松浦一帯を所領とした寺沢氏は獅子城を石垣造りの城に造り変えました。慶長3年(1598)豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦(1600)を経て江戸幕府が開かれた(1603)頃です。しかし、大阪夏の陣(1615)に豊臣家が滅亡するまでは徳川家との2大勢力が存在する緊張状態になり、全国の大名達が次の戦いに備え、競って築城・改造を行った時期です。このような情勢の中で唐津藩主寺沢志摩守広高は軍備を強化しており獅子城が藩領境の重要な防衛拠点の城として、あるいは唐津藩の圧倒的な軍事力と技術力を内外に誇示(こじ)する為の唐津城の支城として大規模に改造した事が平成11年から同20年までの調査で判明しました。

地図・写真・統計資料など

獅子城天守閣跡

獅子城天守閣跡

獅子城石垣

獅子城石垣

(『唐津探訪』より)

引用・参考文献(出典)

  • 『厳木市史』

参考文献について

参考文献については、近代図書館が所蔵している資料もあります。

資料についての問い合わせは近代図書館までお願いします。

電話番号:0955-72-3467

獅子城跡(ししがじょうあと)

獅子城跡(ししがじょうあと)PDFデータ(PDF:253KB)

獅子城跡(ししがじょうあと)PDFデータ(PDF:175KB)

獅子城跡(ししがじょうあと)PDFデータ(PDF:98KB)

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問い合わせ

文化振興課 

〒847-8511 佐賀県唐津市西城内1番1号

電話番号:0955-53-7129