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更新日:2015年8月6日

江戸の唐津相撲人

領巾山(ひれやま)・初瀬川又吉島・松浦岩沖右ヱ門・波戸崎岸右ヱ門

そもそも相撲は、神に相撲を奉納して豊穣を祈願した農耕儀礼信仰の神事でした。神社・仏閣の建立、大修繕のための資金集めとして浄財を喜捨(きしゃ)することを人に勧める勧進行事の中で、勧進相撲は、元禄・正徳のころ(1688~1715)から盛んになりました。
宝暦年間(1751)に入って隆盛になり江戸のほかに、京都の二条河原、大阪は堀江新地の三ケ津勧進大相撲の場所と仙台、岡山、長崎の五場所の相撲になり、天明、寛政(かんせい)(1781~1800)は相撲の黄金時代でした。

江戸の唐津相撲人

  • 領巾山(1734~1756、宮崎夷伊兵衛材木問屋の後裔(こうえい))
    材木問屋から大阪場所登場、12、3年負け知らずの大関源氏山を22歳の時に倒し、また、四ツ車大八をして「明年より鰭之山(ひれのやま)に対しては勝者なし」と言わしめました。6尺2寸5分、189cm、体重39貫、146kgありました。大力無双と評判をとった程の怪力でしたが、宝暦6年(1756)7月13日京都で急死しました。
  • 初瀬川又吉島(大島出身)です。寛政8年2月(1796)に引退しました。
  • 松浦岩沖右ヱ門(1763~1839)は、土井家浪人古舘只右衛門の三男秀雄です。寛政11年(1799)2段目に付出され、文化3年(1806)2月場所まで唐津藩抱え力士として江戸にいました。
  • 波戸崎岸右ヱ門は、頭書九州の力士として安永元年8月(1772)大阪場所に西大関として登場し『古今相撲大全巻之下』に、「6尺2寸、明和9年(1772)三ケ津の大相撲関取中古今無双の大男」として記録されています。翌年3月江戸で西関脇で出場、その後大坂、京都場所のみ出場、安永8年(1779)江戸場所に出ましたが全敗、天明元年(1782)限りで引退しました。

簑島権右ヱ門・鷲が浜音右衛門・千田川

  • 簑島権右ヱ門(みのしまごんうえもん)(1758~1830、本名野口、唐津西南神田村出身)江戸に上り、天明3年(1783)3月2段束4枚目に書き出されて初出場しました。天明6年無敵谷風を破る大金星を上げ入幕しましたが、ほとんど幕下十両で幕内には通算4場所努めました。寛政10年(1798)3月で引退しました。唐津神田に天明7年、江戸柴三田で出生した嫡男を伴い帰郷しました。
    享和2年(1802)、雷電一行が唐津興業をした時、勧進元になっています。(雷電とは寛政2年から9年まで7年間の土俵上の交わりがあり、簑島は雷電には7回対戦して全て惜敗しています。)
    「原典内閣文庫旧幕府引継書」によれば、寛政3年6月(1791)第11代徳川家斉上覧相撲の時167名の力士が登場、二十山部屋から「肥前唐津藩簑島権右ヱ門」と付出され(32歳)「簑島は西の真寉(しんがく)にかなひ廻しにて投げられる」とあり、また寛政6年3月では「滝ノ音に敗る」と記されています。
  • 鷲が浜音右衛門(わしがはまおとえもん)(波戸出身)
    江戸相撲の東の関脇までになっています。引退して天保8年(1837)には、江戸相撲の一行を引きつれて帰郷、波戸岬で勧進相撲を行い、郷里に錦を飾りました。引退して住んだ郷里の家の天井は、一丈あったというから7尺くらい(約2m)の身長、肩巾は、本間畳一畳より広かったそうです。
  • 千田川
    満島村(東唐津3丁目)の山下家に生まれました。天保6年(1835)10月、出府、玉垣部屋に入門、満島嘉蔵と名乗ります。天保7年、大童子峰五郎と改名、同10年11月西幕下筆頭(現在の十両)となり越の海勇蔵と改名、翌、天保11年10月場所より入幕しました。努力の甲斐あって以後トントン拍子に昇進し、天保12年(1841)東前頭三枚目になり、越海福松と改名、同15年10月場所を機に玉垣部屋に伝わる力士名の「千田川吉五郎」と名乗りました。弘化3年(1846)前頭9枚目に転落、11月に相撲界を引退して帰郷しました。東唐津の宝昌寺には「千田川居士・中町・千田川・嘉永4年12月19日」と戒名が記載されています。

無敵の雷電が来唐・唐津巡業と藩主御前相撲

無敵の雷電が来唐・・・雷電:信州小県(ちいさがた)出身

生涯成績254勝10敗で、引退後は松江藩に召し抱えられました。
江戸大相撲の角友唐津相撲人、簑島権右衛門を頼りに唐津に来ました。雷電と千田川は魚屋町の木屋の離れに、その外の関取衆と若者は母屋に、そこから5丁ばかりの相撲場に出かけました。

唐津巡業と藩主御前相撲

左近将監に叙(のべ)られた藩主水野忠鼎(みずのただてい)は、藩校「経誼館(けいぎかん)」を城内(現大志小学校)に建立(58歳)しました。取る者、雲州藩抱え26人の面々です。相撲場は、唐津城裏手の小門埋内門に至る小路より西一町になる五間町馬場と推定されます。この相撲人は、大男は波戸崎岸右ヱ門です。御前相撲は1日金15両(現225万円相当)下されます。外ご祝儀に皆々に反物をくれます。入場木戸銭は普通銀二匁(ふつうぎんにもんめ)で、5,900人ばかり入場していました。

東京大空襲と郷土力士・小結松浦潟達也

本名は、牧山強臣(まきやまかつおみ)です。大正4年5月27日生まれです。馬渡島出身です。
16歳の時、錦島部屋に入門しました。
身長6尺2寸(1m86cm)あります。体重29貫500匁(もんめ)(112キロ)です。
初土俵が、昭和5年5月場所です。昭和9年5月幕下、昭和13年55月場所には大蛇潟を襲名し、東十両に昇進しました。昭和15年1月場所には、再び松浦潟のシコ名に復帰待望の入幕を果たし、東前頭19枚目になりました。見事な体格と胸のすくような綺麗な取り口は、人気の的になり、三役入りを保証され、郷里および佐賀県民の期待を一身に集めていましたが、惜しくも昭和20年3月10日の空襲で、行方不明になり、再び土俵上で英姿を仰ぐ事はありませんでした。

地図・写真・統計資料など

領巾山四十九回忌供養塔(養福寺)

領巾山四十九回忌供養塔(養福寺)

(『末盧國』1994年120号より)

箕島の墓佐志共同墓地内

箕島(みのしま)の墓佐志共同墓地内

(『末盧國』1994年119号より)

鷲が浜顕彰碑

鷲が浜顕彰碑

(『末盧國』1999年139号より)

雄々しい関取姿「千田川」

雄々しい関取姿「千田川」

浮世絵師一陽斉豊国が当時の有名力士を描いた中にこの「千田川吉五郎」が描かれています(『末盧国』より)

松浦潟

松浦潟

(宮島醤油株式会社HP:会長コラムより)

引用・参考文献(出典)

  • 郷土史誌『末廬國』
  • 『鎮西町史』
  • 久保の土俵形の墓
  • 行司の道具
  • 宮島醤油HP

参考文献について

参考文献については、近代図書館が所蔵している資料もあります。

資料についての問い合わせは近代図書館までお願いします。

電話番号:0955-72-3467

江戸の唐津相撲人

江戸の唐津相撲人PDFデータ(PDF:261KB)

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問い合わせ

文化振興課 

〒847-8511 佐賀県唐津市西城内1番1号

電話番号:0955-53-7129