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更新日:2015年8月6日

倭寇と松浦の地3

松浦党とは?松浦の範囲は?

松浦党とは・・・

松浦党の祖は、源久(みなもとのひさし)であると言われています。
1019年新羅の時代(紀元356年~935年)、朝鮮半島より北方に住む女真族の一派が、北九州および松浦地方を襲う事件がありました。俗に言う「刀伊賊(といぞく)の来寇」です。賊船は、50数隻、船の大きさは約20メートル、各船に40~50人乗っていたので2,000人以上の大集団でした。

刀伊賊は、3月対馬を襲い、ついで壱岐を襲い、そして筑前怡土郡(いとぐん)(糸島)を襲いました。これと戦ったのが、在地の武士でした。
そして、4月13日肥前国松浦郡に侵寇しました。この時『朝野群載』には、「ここに前(さき)の介(すけ)、源知(みなもとのしらす)、郡内の兵を率いて合戦す。・・・」とあります。源知は、上陸した賊を撃退しました。この刀伊賊を撃退した源知は、恐らく上松浦を支配する有力武士であったと考えられます。
そして、この刀伊賊の事件後の80年後の『石志(いしし)文書』(1102年)によれば、松浦郡の有力支配者は、源久になっています。

『松浦党大系図』では、

となっています。ここで、綱の子、久は知ではないかと言われています。それは、知と久は草書体で書けば、極めて似ています。そうだとすれば、源大夫久が一代で上下松浦を支配するのではなく、その前に同族の“知(しらす、または、ちかし)”の存在があり、久(ひさし)が継承、拡大していったと考えられます。

松浦党も、上松浦党と下松浦党に分けられます。上松浦党は、東西松浦郡の在地、領主層の構成するもので、松浦荘を中心に発展し、石志氏、佐志氏、波多氏、有浦氏、値賀氏、さらに、鶴田氏、相知氏があります。下松浦党は、西松浦郡の西の端から、南北松浦郡にかけて存在した宇野御厨荘(うののみくりやのしょう)に関係したもので、東彼杵郡方面までわたる党的武士集団でした。

松浦の範囲は

福岡県糸島郡より、佐賀県、東松浦郡、唐津市、西松浦郡、伊万里市、以上が上松浦です。長崎県、南松浦郡、北松浦郡、松浦、佐世保、平戸、生月、宇久島、五島列島、以上が下松浦です。福岡、佐賀、長崎の三県にまたがっていました。

エピソード・伝承・うんちくなど

「松浦党唐津会所跡」

松浦党の党主が集まり、話し合った所が町田川の辻橋(今の東新興町、金谷)の付近にあったと言われています。

(新岡治生さんより提供)

地図・写真・統計資料など

佐志氏の居城浜田城跡(唐津市佐志)

佐志氏の居城浜田城跡(唐津市佐志)

石志氏居館(中央山麓)

石志氏居館(中央山麓)

石志氏は石志に館を構えましたが、山城を築かず山麓に住みました。(唐津市石志)

鬼ヶ城跡

鬼ヶ城跡

草野経永以来、松浦東郷に努力を張った草野氏代々の居城でした。

(『唐津市史』より)

引用・参考文献(出典)

  • 『鎮西町史(上)』P332
  • 『唐津市史』
  • 『肥前町史(上)』

参考文献について

参考文献については、近代図書館が所蔵している資料もあります。

資料についての問い合わせは近代図書館までお願いします。

電話番号:0955-72-3467

倭寇と松浦の地3

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問い合わせ

文化振興課 

〒847-8511 佐賀県唐津市西城内1番1号

電話番号:0955-53-7129