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病と闘いながら数々の短歌を残し、誇り高く生きた歌人、津田治子

ページID:0041142 更新日:2025年11月26日更新 印刷ページ表示

呼子町出身の歌人、津田治子(つだはるこ)を知っていますか。

呼子町・尾ノ上公園には、津田治子の短歌が刻まれた歌碑が2基あります。

歌碑1

歌碑2

津田治子は、明治45(1912)年に呼子町(当時は呼子村)で生まれました。

18歳でハンセン病と宣告され、23歳の時に熊本県の病院に入院。医師の勧めでキリスト教の洗礼を受けました。昭和13(1938)年に短歌結社「アララギ」に入会し、歌人・土屋文明に師事。病と闘いながら数々の歌を残しました。

昭和30(1955)年、717首を収めた「津田治子歌集」を出版。精力的に自己表現を続け、誇り高く生き抜くも、昭和38(1963)年、腹膜炎によって亡くなりました。享年52歳。

歌碑に刻まれている歌

「父の郷 わが生まれたる松浦郡 呼子の町が 見えて恋(こほ)しき」

昭和35(1960)年に呼子町方面へ旅した時に詠んだ歌

「現身(うつしみ)に ヨブの終りの倖(しあわせ)は あらずともよし しぬびてゆかな」

作家・大原富枝の小説「忍びてゆかな 小説津田治子」のタイトルに引用された歌

「苦しみの きはまるときにしあはせの きはまるらしも かたじけなけれ」

闘病の苦悩を歌に昇華させ、力強く生き抜いた


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