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病と闘いながら数々の短歌を残し、誇り高く生きた歌人、津田治子

ページID:0041142 更新日:2026年3月9日更新 印刷ページ表示

呼子町出身の歌人、津田治子(つだはるこ)を知っていますか。

呼子町・尾ノ上公園には、津田治子の短歌が刻まれた歌碑が2基あります。

津田治子の短歌が刻まれた歌碑(その1)津田治子の短歌が刻まれた歌碑(その2)

津田治子は、明治45(1912)年に呼子町(当時は呼子村)で生まれました。

18歳でハンセン病と宣告され、23歳の時に熊本県の回春病院に入院。医師の勧めでキリスト教の洗礼を受けます。昭和13(1938)年に短歌結社「アララギ」に入会し、歌人・土屋文明に師事します。昭和15(1940)年には九州療養所(のちの菊池恵楓園)に転院。

社会からの抑圧を受け、自由な生き方を得ることができない中、病と闘いながら数々の歌を残しました。昭和30(1955)年には、717首を収めた「津田治子歌集」が出版されています。

昭和38(1963)年、腹膜炎により逝去。享年52歳(数え年)。苦難に耐えながらも信仰と短歌を支えに、誇り高く自己表現を続けました。その生涯と残された歌は多くの人々の感情を揺さぶるものでした。

この歌碑は、故郷を去らなければならなくなった治子のため、せめて呼子町を見渡せる場所に、との思いから、尾ノ上公園に建立されました。

歌碑に刻まれている歌

「父の郷 わが生まれたる松浦郡 呼子の町が 見えて恋(こほ)しき」

昭和35(1960)年に呼子町方面へ旅した時に詠んだ歌

「現身(うつしみ)に ヨブの終りの倖(しあわせ)は あらずともよし しぬびてゆかな」

作家・大原富枝の小説「忍びてゆかな 小説津田治子」のタイトルに引用された歌

「苦しみの きはまるときにしあはせの きはまるらしも かたじけなけれ」

闘病の苦悩を歌に昇華させ、力強く生き抜いた


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