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更新日:2021年8月6日
明治期、肥前町高串地区を襲ったコレラの防疫に懸命に尽くした唐津警察署の巡査です。
明治2年(1869年)8月10日に、当時の熊本県泗水(しすい)村(現在の菊池市泗水町)の裕福な増田家の長男として、増田敬太郎さんは誕生しました。おおらかな性格の敬太郎さんは、誰からも好かれる人物で、永島塾で漢学を、後藤塾では数学や測量学を学び、数学の天才と言われていました。阿蘇郡馬見原(あそぐんまみはら)(現在の熊本県山都町)の用水路工事や北海道開拓、泗水村での養蚕業など世のため人のためになることを次から次へと行う人物でした。
明治28年、日清戦争が始まった頃、熊本県泗水村にいた敬太郎さんは、どうにかして世の中のためになる仕事がしたいと熱望し、偶然、佐賀県巡査(警察官)募集の広告が目にとまり、すぐに「私の進む道は、国のために働ける巡査しかない」と決心しました。
明治28年7月、敬太郎さんは佐賀県の巡査教習所(警察学校)に入り、通常、約3ヵ月を要する教習課程をわずか10日間で習得し、優秀な成績で修了しました。そして、7月17日巡査に任命され、19日には唐津警察署に配属を命じられました。
そのころ、唐津警察署の担当地区である東松浦郡入野村高串(ひがしまつうらぐんいりのそんたかくし)地区(現在の唐津市肥前町高串地区)では、伝染病であるコレラが流行していました。当時の高串地区の巡査から県の警察本部に応援要請があり、巡査の教習課程をわずか10日間で習得した秀才ぶりに加え、学問への深い理解と広い行動力、伝染病予防に必要な衛生面の知識があることから、適任者として増田巡査が任命されました。
7月21日には、唐津から交通機関がない山道をたどり、入野村の高串地区に到着しました。
増田巡査は高串地区に到着するとすぐに地区内を調査し、区長たちと「コレラ感染を防ぐには、一刻も早く患者と健康な人との接触を絶たなければならない。」と、その対策を講じることにしました。村人たちは予防知識に乏しく、患者のいる家に行き来していて、増田巡査はただちに患者の家の周りに縄を張り巡らして消毒を施し、人々の行き来を禁止しました。また、人々には決して生水を飲まないように、生のままの魚介類を食べないように厳しく指導してまわりました。
しかし、既に手遅れの患者が薬を飲んで亡くなったのをきっかけとして「患者に毒薬を飲ませているから死んだのだ。」との根拠もない噂が広まっていました。治る見込みのある患者までが「この薬は毒薬だから飲まない。」と言い出しました。この状況下の中でも、増田巡査は地区内の人々に根気強く誤解を解いてまわりました。
一方で、コレラで亡くなった人の遺体を運ぶと病気が感染すると口実をつくって地区の人々が死体運搬を拒みました。そこで、増田巡査は自ら遺体の消毒を行い、むしろで巻いて海岸から船で対岸まで運び、遺体を背負い傾斜30度の坂道を約200m上り丘の上の墓地に埋葬しました。このような手厚い看病や感染予防活動に全身全霊で取り組む姿に、人々は心を打たれました。
高串に赴任して3日目、不眠不休で懸命に働いたためか、増田巡査の疲れ切った体にコレラが容赦なく襲いました。4日目には目に見えて衰弱していましたが、看病に出向いた老人に「絶対に私には近づかないように。」と言い、気づかいを怠りませんでした。村の評議員が見舞いに出向いた時には「もう回復の見込みはないと思いますが、高串のコレラは私が全部背負っていきますから、安心してください。人々には私が指導したように看病と予防を怠らずに続けるように伝えてください。」と遺言し、7月24日午後3時に25歳の若さで増田巡査は亡くなりました。
増田巡査の遺言どおり、高串地区のコレラは間もなく収まりました。地区の人々は、増田巡査の献身的な行為に心から感謝し、遺骨を分骨してもらい、地区で一番見晴らしの良い秋葉神社の境内に埋葬しました。人々の思いは年月を経てますます強くなり、増田様と秋葉神社は合祀され、増田神社となりました。増田神社には、神社の資格である社格がありませんが、格式にとらわれず、代々、人々の心の中で崇められています。
増田神社の映像(肥前町田野)令和3年6月24日撮影
毎年、春分秋分の日を例祭日としていましたが、昭和48年から7月26日を増田神社夏祭りと改め、白馬に乗った増田巡査の人形を載せた山車が地区内を練り歩き、大漁旗で飾った漁船が海上パレードを行うなど、盛大に行われるようになりました。
『増田敬太郎物語』(2004年3月肥前町高串区発行)より抜粋
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