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更新日:2021年10月1日
唐津神社は天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年(755)に建立(こんりゅう)されました。御神祭は一ノ宮「住吉三神(すみよしさんじん)(海上安全と禍事清祓(まがごときよはらい)の御神徳(ごしんとく))」二ノ宮「神田宗次公(こうだむねつぐこう)」「水波能女神(みつはのめのかみ)(火伏(ひぶせ)の御神徳)」をお祀りされています。
神社創建の日(旧暦9月29日)を祝う祭りとして、御神輿で御旅所にお渡りになる御神幸(現在の唐津くんちの原型)が始まったのは、寛文(かんぶん)年間(1661~1673)の頃と伝えられています。
御神幸がはじまった当時は、何らかの形で御神輿にお供する出し物があったと考えられており、宝暦(ほうれき)13年(1763)には各町が傘鉾(かさぼこ)等を出したと記録があるため、それ以前には傘鉾はあったと考えられています。これを「担ぎ山(かつぎやま)」と呼び、その後「走り山(はしりやま)」が登場します。車が付いた台車の上に各町趣向を凝らした作り物を乗せ、勢いよく引き廻していました。江川町の赤鳥居、本町の左大臣右大臣、木綿町(きわたまち)の天狗面、塩屋町の仁王様、京町の踊り屋台などがあったとされています。
文化14年(1817)、小笠原家が棚倉藩(たなぐらはん)(現在の福島県東白川郡棚倉町(たなぐらまち))から唐津へ転封(てんぽう)(場所を移ること)して2年後の文政(ぶんせい)2年(1819)、初代小笠原長昌(ながまさ)が城主の時、刀町で現在1番曳山である赤獅子が完成しました。漆で仕上げられた巨大な獅子頭。台車には囃子方が乗り込み、囃子を奏でながら巡行する「囃子ヤマ」に他町は驚かされ大きな影響を与えました。赤獅子製作から明治9年(1876)までの間に各町は新たに曳山を製作しました。現在では14ヵ町の14台の曳山が現存しています。
曳山巡行時に曳山の台車に乗り込み、笛、鐘(かね)、太鼓の三ッ囃子(みつばやし)で巡行にあわせて奏でられます。囃子は3曲あります。
残したい”日本の音風景100選”のひとつに選ばれています。
旧小笠原藩時代に城内を練り歩く際に静かに囃した曲。現在は1番曳山の赤獅子のみ11月3日出発の時だけに唐津神社から大手門(現在の大手口)までを囃している雅楽調の曲です。
競り囃子は町人の武士に対する意気込みともいわれ、巡行中に「エンヤ、エンヤ」「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声とともに囃す曲。各町でそれぞれ特徴があり、曳山を見ずとも囃子を聞くだけでどこの町かわかるほど。
御旅所(西の浜)での休憩時や巡行の際に曳山が停まっている時に囃す曲。一説によると、豊臣秀吉が肥前名護屋城の石垣を組む時の「石引歌(いしひきうた)」ともいわれています。
唐津くんち本番に向け、10月1日から唐津くんち本番まで毎日囃子の練習が行われます。各町がそれぞれ19時過ぎ頃から練習をはじめ、場所も集会所や公園など14ヵ町さまざまです。
宵の口、ぶらっと外を歩くと、遠くから囃子の音色が聞こえてき、唐津くんちの訪れを感じることができます。
11月3日御旅所神幸の早朝、神田地区の若者により、唐津神社境内にて雄獅子、雌獅子の獅子舞を奉納します。獅子は木造の漆塗りで頭にかぶり演じます。この獅子舞は、口元をかぶかぶ動かすことから「かぶかぶ獅子」とよばれています。
町人の祭りとして火消し組名残りの江戸腹・パッチに足袋・草履を履く。頭にはハチマキを巻き、各町揃いの意匠を凝らした肉襦袢(にくじゅばん)と法被に身を固めます。
毎年4月29日(祝日)に行われる唐津神社の春の大祭。
11月の唐津くんち本番でしか見ることのできない曳山が、神社前に勢ぞろいします。(雨天中止)
毎年4月29日(祝日)10時~15時
唐津神社前
唐津市西城内6-33
唐津くんち以外のときは、唐津駅横のふるさと会館アルピノ敷地内の曳山展示場で曳山を間近に見ることができます。
曳山展示場の現地建て替えに伴い、唐津市新興町の唐津ふるさと会館アルピノ敷地内に「曳山展示場」を移転し、令和3年10月1日から開館しています。
午前9時から午後5時まで
20人以上は団体割引(2割引)
唐津市新興町2881番地1
0955-73-4361
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